アートシリーズ「抽象画×小さいふ。」
今回のアートシリーズは抽象画の代表的画家「ワシリー・カンディンスキー」「ピエト・モンドリアン」「ヒルマ・アフ・クリント」の作品が小さいふになりました。
ピカソや岡本太郎も数多く描いている抽象画ですが、どこか難解なイメージがあります。抽象画の創始者カンディンスキーは「なぜ抽象画を描くようになったのか」との質問に「絵に見える以上のものを表現するため」と答えています。
存在するものを写実的に描くのではなく、作者の表現したい物事の本質や創造性を自由に発揮して描かれる抽象画。純粋に感じるままを味わうのが抽象画の鑑賞の仕方ですが、作品の背景を理解することでより深く楽しむことができます。
芸術の秋「小さいふアートシリーズ」をぜひお楽しみください。
ワシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky。1866年モスクワに生まれる。モスクワ大学で法学と経済学を修めた後、ミュンヘンで絵画を学ぶ。1922年にドイツのバウハウスの講師となる。美術理論家として多くの著作を残した。
抽象画の創始者 カンディンスキー
世界で最初の抽象画を描く。
人並外れた感性と共感覚の持ち主。
音楽のような絵画表現を目指す。
ナチスに作品の展示を禁止される。
人生を変えた感動
画家になる前のカンディンスキーは法学の道を志し、教授として成功を収める。29歳で辞職し印刷工場を運営する仕事に就くが、展覧会で出会った絵画によって人生が変わる。
ある作品の前で、そこに何が描かれているのかわからず、解説を見てもそのものが描かれているようには見えなかったが、その美しさの感動や心地良さが変わらないということに驚く。その絵はモネの「積み藁(つみわら)」だった。
数ヶ月後、印刷工場を辞めてドイツへ向かいそこで画塾へ通いながら画家の道を歩き出す。カンディンスキーの人並外れた感性が絵画と結びついた瞬間だった。
世界で最初の抽象画が生まれる
ドイツへ渡った4年後には早くも芸術グループ「ファランクス」の中心者として精力的に展覧会を開催し画学校を設立する。
二度目の決定的瞬間が訪れる。まだ薄暗い夜明け前に自分のアトリエに入ったときのこと。そこに置いてあった絵画の美しさに感動して思わず涙を流す。
そこに何が描いてあるのかは分からなかったが、それもそのはず縦横を逆に置かれた自分の作品「コンポジション V(5)」のデッサンだと気づいたのはその後だった。
モネの絵の前で体験したあの感動を自らの作品で表現できたことを悟る。そして1910年に美術史上、最初とされる抽象画を描く。
「芸術の第一目的は作家の奥にある感覚の表現である。」
響きあう色と形の音空間
今回の小さいふのデザインとなっているカンディンスキーの代表作「コンポジション VIII(8)」(1923年)は30年間かけて制作された10枚のコンポジションシリーズのひとつ。バウハウスで教鞭を取っていた頃に描かれている。
「色はキーボードで、目はハンマー、精神は多くの弦からなるピアノだ。」
カンディンスキーは音に色を感じる共感覚の持ち主だったといわれている。コンサートでオーケストラを聴くときのように絵画も具体的な意味がなくても、色と形のバランスやハーモニーによって直接心に伝わり魅了することができるという確信を深める。
自分の内奥の感覚を絵画によって表現する作品「インプレッション(印象)」「インプロヴィゼーション(即興)」「コンポジション(作曲)」のシリーズが生まれる。
色と形の響きあう音空間にあなたは何を感じますか?
自由な世界を目指して
二度の世界大戦という激動の時代を生きたカンディンスキー。スターリンの台頭から逃れてロシアからドイツへ。ドイツではバウハウスで教官を務めるがナチスの思想統制から逃がれてパリへと移住。そこで静かに創作しながらその生涯を終える。
ナチスの前衛芸術に対する弾圧によってカンディンスキーの作品は「退廃芸術展」で晒し者にされ、いくつかの作品は売却され焼却された。
「いまや、ほぼすべての国で国家が歌われている。そして僕はと言えば、歌わずにいられることに満足している。ああいう国家はまさにおとりのようなものだよ。」
芸術は人々が物質社会によって間違った価値観への執着や競争意識に陥る代わりに、精神的内面に目覚めるのを助ける力があるとカンディンスキーは考えた。自由で心豊かな世界を表現するために彼は絵画を描き続けた。
「芸術作品に未知の世界へと誘われたことがあるか、自分の問いかけてごらん。もしもあるのなら、それ以上に何を望むというのだろう?」
「芸術に必要なものはない。なぜなら芸術は自由なのだから。」
ピエト・モンドリアン
Piet Mondrian。1872年オランダに生まれる。前衛運動「デ・ステイル」の創立メンバー。新造形主義を提唱。近代芸術作品に留まらず、タイポグラフィー、建築、工業デザインなど幅広い分野に大きな影響を与える。
抽象画の巨匠 ピエト・モンドリアン
カンディンスキーと並ぶ抽象の父。
晩年まで新しい絵画表現を追い求める。
変わることのない普遍性をテーマにした。
アトリエでは蓄音機でジャズを流しダンスに熱中した。
今も色褪せない作品
モンドリアンというと赤、黄、青の三原色に垂直線と水平線と描かれた作品「コンポジションシリーズ」が思い浮かぶ。力強くインパクトのある作品は今見ても現代的なフォームを持っていることに驚く。
カンディンスキーと違ってより形を重視したモンドリアン。抽象画によってモンドリアンは何を表現しようとしたのだろうか。誰もが知るその作品フォームに辿り着くまでには様々な試作が重ねられている。
新しい表現を追い求める
モンドリアンはオランダで画家を志し、その時代に多くの風景画を残している。作品に変化が見られるのは作品が徐々に売れはじめた頃、訪れた母の死がきっかけだった。
その後、キュビスムを追求するためピカソらのいるパリへと移り住み、新しい表現を模索する。彼には目に映る絵画も建物も古臭いものに見えた。モンドリアンの関心は常に新しいものにあり、それは晩年まで変わることはなかった。
作品「コンポジション10」では水平、垂直の線のみによって海のさざ波が表現されている。最小限で単純に視覚化しようとする試みが始まっている。
「色彩の様に形にも普遍の真実が存在する。それを発見することである。」
目に見える世界の向こうに
モンドリアンの抽象画のスタイルの背景には当時ブームとなっていた神秘主義思想「神智学」の影響がある。
それは、目に見える現実の世界は無秩序で、儚(はなか)く虚(うつろ)い、とどまることを知らない、しかしその深奥には普遍的で変わることのない「調和(秩序)とバランス(均衡)」があるというものだった。
太陽系の自転公転のリズム、雪の結晶が繰り返す幾何学模様、宇宙や生命には一定の法則が働いているに違いない。時代は二度の世界大戦に突入する混沌とした世界だった。
「芸術とは意識的、個別的なものを排除し 世界と自己を結ぶ普遍的なものを抽出する行為である。」
変わらないものを求めて
1914年にオランダへ戻り、そこで出会ったテオ・ファン・ドースブルフと共に「新しい造形」を意味する「新造形主義」を提唱し、作品製作をはじめる。
赤、黄、青の三原色、垂直線と水平線で究極に抽象化された構図。それによって秩序と均衡ある構成を生み「生命力の根源」が表現される。数々の代表的なモンドリアンの作品はこうして生まれた。
ピカソなどの偉大な芸術家と同じく、自分のスタイルを変化させながら新たな表現に到達したモンドリアン。作品が古臭さを感じさせないのは、そこに彼の目指した時代が変化しても変わらない普遍性が表現されているからだろう。
「美の感動は、いつも対象の特有な外見によって妨げられる。だから、あらゆる具象表現から対象を抽象化する必要があるのだ。」
ヴィクトリー・ブギウギを踊る
今回の小さいふのデザインとなっている作品「Victory boogie woogie」(1942-1944年)はモンドリアンの未完で残された遺作。描かれたのはニューヨークだった。
1940年ファシズムの台頭によりモンドリアンはパリを離れてロンドンへと向かう。戦争に翻弄された人生でもあった。
戦禍を逃れてひと安心と思ったところ、ドイツ軍の爆弾が自宅の庭に落ちたことで移住を決意。ニューヨーク行きの船に乗りマンハッタンに移り住み、残りの人生をそこで過ごすことになる。
彼はアメリカのジャズが好きで、アトリエでは蓄音機でジャズを流しダンスに熱中した。証言では「彼はいつも新しいステップを考案するので、一緒に踊るのは大変だ。(画家 リー・クラスナー)」とある。
「ヴィクトリー・ブギウギ」は陽気なリズムとカラフルな色彩を持ち、作品のタイトルのビクトリーには第二次世界大戦の終結の予感が現れている。
ヒルマ・アフ・クリント
Hilma af Klint。1862年スウェーデン生まれの女性画家。神秘主義者。職業画家として成功を収める。作品は死後20年間封印され、2019年の回顧展で世に知られることになる。
謎の女性画家 ヒルマ・アフ・クリント
カンディンスキーより前に抽象画を完成させる。
死後20年間作品を封印させる。
グッゲンハイム美術館歴代1位の来場者数を記録。
美術史を覆す謎の女性画家。
死後20年間封印された作品
カンディンスキーやモンドリアンよりも前に、独自の手法で抽象画を描いていたスウェーデンの女性画家ヒルマ・アフ・クリント。
スウェーデン王立美術院で美術を学び職業画家として成功を収める。芸術家集団「De Fem(5人)」として活動。
しかし生前にはその革新的な作品を公表せず「死後20年間は作品を世に出さないように」という本人の意向が守られる。
美術史を覆す謎の女性画家
ヒルマが世を去ってから75年後の2019年、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で回顧展「ヒルマ・アフ・クリント 未来の絵画」が開催される。当館歴代1位の60万人の来場者数を記録。
カンディンスキーらに先駆けて抽象絵画を描いた「美術史を覆す謎の女性画家」としてその存在と作品が世界に知られることなる。
「ヒルマ・アフ・クリント 未来の絵画」
2023年4月にはドキュメンタリー映画「見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界」が公開。日本ではまだ未公開のラッセ・ハルストレム監督の映画「Hilma」でも彼女の生涯が描かれている。
スウェーデンの豊かな自然が育んだ作品
幼少期にはスウェーデンの豊かな自然の中で育ち、夏にはメーラレン湖に浮かぶアデルソ島の農場で過ごしたことはヒルマの創作のインスピレーションとなっている。
18歳の頃に妹を亡くしたことから神秘主義思想に触れるようになり、モンドリアンと同じく神智学の影響が強いとされる。
大胆な構図で描かれる花や果実、植物を思わせるフォルム。青、黄、ピンク、オレンジのカラフルな配色は生命と成長を表現しているといわれる。
今回の小さいふのデザインとなった作品「The Ten Largest, No. 7, Adulthood」(1907年)は、子供時代から老年期までのライフサイクルをテーマとしたシリーズの一つ。作品には見るものを不思議な世界に導く魔法がある。
奇しくも彼女はカンディンスキー、モンドリアンと同じ1944年に亡くなる。歴史に数少ない女性画家としてヒルマ・アフ・クリントの存在が知られていれば、美術史は変わっていたかも知れない。