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南アフリカ


ネルソンマンデラ

ネルソン・マンデラ生誕100周年
南アフリカで「最もユニークな文化のひとつ」と言われるンデベレ族のアートをモチーフにした小さいふをつくりました。

ンデベレ族の住居に描かれた幾何学的模様の壁画アートは、フリーハンドで抽象的な三角形と長方形をベースとしながら描かれます。
そのユニークな模様は飛行機やテレビのアンテナなどの現代的モチーフを取り入れながら、一目でそれとわかる個性を持っています。

人類のルーツ、母であるアフリカは今日も絵画、音楽などインスピレーションを与え続けています。

今年2018年は南アフリカで肌の色による人種差別を撤廃した英雄「ネルソン・マンデラ」の生誕100周年の佳節となります。

肌の色による人種差別を撤廃し、虹の国レインボーネイションを築いたその偉大な姿は今も私たちを奮い立たせます。

世界を現状のまま受け入れなくてもいいんだ。
世界があるべき姿になるように自分なりの役目を果たすことができるんだ、ということをマンデラがはっきりと示してくれました。

自分の国、そして世界を変えるためにあまりにも多くのことを成し遂げたのでマンデラのいない過去十数年の歴史を想像するのが難しいほどです。

バラクオバマ


オバマ元大統領に「マンデラのいる前の世界を想像することが難しい」と言われるほど、世界の歴史に及ぼした影響は計り知れません。
怒りと情熱

生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにある。


アフリカ大陸の最南端に位置する南アフリカ共和国。
さまざまな人種が暮らすその国で1948年の政権交替によりヨーロッパから来た一部の白人(1980年時点で約15%)が多くの黒人たちを支配しようとアパルトヘイト(人種隔離政策)体制を構築しはじめました。

元々住んでいる多くの黒人たちは参政権を与えられず、住む場所や通う学校、仕事などを決められ、黒人は白人との結婚はもちろん、一緒にバスに乗ることもできず、抵抗運動は徹底的に弾圧されました。
そのとき法学を学ぶ学生であったマンデラは差別に苦しむ黒人の一人として弁護士となり反アパルトヘイト運動に身を投じ、やがて青年たちの先頭に立つようになります。

何百もの侮蔑、何百もの屈辱、何百もの記憶に残らない出来事が絶え間なく積み重ねられ、怒りが、反抗心が、戦おうという情熱が自分の中に育ってきた。


囚人番号46664
南アフリカの政府は、マンデラの活動を嫌い全国に指名手配をかけました。
そうしてマンデラは警察に逮捕され45歳の時、国家反逆罪で終身刑を言い渡されました。

恐れるべきは死じゃない。目的のない人生を歩むことだ。


私は白人による支配に反対し、そして黒人による支配にも反対してきました。
全ての人々が協調して平等な機会の下で共に暮らしていく、民主的で自由な社会という理想を大切にしています。
この理想に人生を捧げて実現を目指すことができれば最も望ましいですが、必要であれば、この理想のために死をもいといません。


「ロベン島」という刑務所島に投獄されたマンデラはここでも差別により食事も衣服も満足に与えられない中、ハンマーで岩を砕き、砂利を作る作業を延々とすることになりました。
ロベン島 収容所跡
希望という武器

困難に挫ける人もいれば、困難で成長する人もいる。
挑戦を続け、最後の瞬間まで”希望”という武器を振りかざす罪人の魂はどんなに鋭い斧でも切り裂くことはできない。


囚人たちは、就寝用のマットとバケツのトイレだけの小さな牢屋に閉じ込められ、毎朝5:30に起き、バケツを空にしてから一日の重労働を行いました。
家族との接触も禁じられ、一年に一度だけ30分間の面会とたった二通の手紙のみに制限。
加えてマンデラは結核をはじめとする呼吸器疾患、重労働により目を傷めるなど体調を崩し、獄中生活は熾烈を極めました。
しかしながら彼の"希望"の火が消えることはありませんでした。

マンデラと捕らえられた仲間たちは討論と話し合いに多くの時間を費やし、自分たちは鋼の男であり、新しい南アフリカへの希望を絶対に諦めないことを誓い、「ロベン島大学」と呼ばれるほど勉学に打ち込み、獄中で南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得しました。

楽観的であるということは、顔を常に太陽へ向け、足を常に前へ踏み出すことである。




マンデラが収監されていたロベン島収容所
獄中の対話

我々の戦いは長期戦だ。長期的で幅広い視野を持って行動すべきなのだ。


そんな先の見えない過酷な日々が続く中で、マンデラは次第に「差別する側の心」に目を向けるようになりました。

マンデラは、獄中で白人の話す「アフリカーンス語」を学び始め、そして白人の刑務官と会話を交わすようになり「対話することで互いを理解し合うことができる」という確信を深めました。

「収監された当初、マンデラは、われわれを侮辱する白人の刑務官に対する怒りであふれていました。しかし、その後、彼らがなぜあのような仕打ちをするのか理解しようとし始めました。
そしてすべての白人が、心底、黒人を憎んでいるわけではないと気付き、怒りを抱くことは無意味だと言い始めたのです。」
[ともに収監されていたモシワ・レコタさんの証言]


対話を続ける中、着る物や食べ物などの差別が少し改善され、収容されてから16年後には新聞を読む事ができるようになりました。
白人の刑務官に自ら敬意を示すことで、彼らのかたくなな心を解きほぐしたのです。

抑圧された側が解放されるのと同じように、抑圧する側も解放されなければならない。他人の自由を奪うものは憎しみにとらわれ、偏見の檻(おり)に閉じ込められているのだ。


27年間の獄中生活からの解放

いつかふたたび土を踏み締め、太陽の下を自由民として歩ける日が来ると、わたしはいつも信じていた。


次第にマンデラは獄中にあって解放運動の象徴的な存在とみなされるようになりました。
マンデラを釈放するようデモ行進などが行われ、1980年には「マンデラに自由を!」という記事が新聞に載り、国内でのマンデラの解放運動が高まりました。
世界のメディアも人権に反するアパルトヘイトを実施している南アフリカ政府を非難しはじめました。

そしてついに1990年2月11日に71歳で27年間の獄中生活から解放されたのです。

シティホールのバルコニーで姿を現したマンデラにかつての怒りに満ちた面影はありませんでした。
そして目の前の広場に集まった歓喜に湧く観衆に向かってスピーチを行いました。

今日、南アフリカの大半である黒人も白人もアパルトヘイトには未来がないことを認識した。


我々の自由への前進を取り消すことはできない


アパルトヘイトを撤廃し 初の黒人の大統領に
解放後、アフリカ民族会議議長に就任しアパルトヘイト撤廃に尽力、ついに1991年にアパルトヘイトは撤廃されます。
マンデラがフレデリック・デクラーク大統領と作った「和解の記録」により、すべての人種に選挙権が認められるようになり、1993年にノーベル平和賞を受賞。
1994年に、南アフリカで初めて行われた国民総選挙でマンデラが黒人として初の大統領に選ばれました。

初の黒人による政権誕生に沸く黒人たち。
一方、これまで権力を握っていた白人の間には、報復への恐怖が高まりました。
この時マンデラが打ち出したのが、「許し」によって人種間の融和を目指す試みでした。

肌の色や育ち、信仰の違いを理由に他人を憎むように生まれつく人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎むことを学べるなら、愛することも学べる。愛は憎しみより自然に人の心に届くはずだ。


虹の国
黒人も白人も胸を張って歩ける

人間の尊厳が守られる社会を築こう。

われわれが目指すのは

平和な“虹の国”だ。

マンデラが大統領になった後も国内の混乱した状況は変わりませんでした。対立と暴動はやまず、武力放棄を疑問視するたくさんの声もありました。

しかしマンデラは冷静になるように訴え、長年白人に苦しめられてきた黒人の怒りを怒りで返すのではなく、許す事を徹底することで、怒りから対話と和解へと運命の転換をはかりました。

白人も同じ南アフリカ人だ。
彼らが身の危険を感じるような事態は望んでいない。
この国に対する彼らの貢献に、私たちは感謝していることを知ってほしい


今こそ傷を癒すときです。
今こそ、私たちを分け隔ててきた深淵に橋を架ける瞬間です。国づくりのときが訪れたのです。


黒人と白人の溝が埋まらなければ、憎しみの連鎖による内戦が起きかねない状況をマンデラは誰よりも理解していたのです。

被害者にとって、加害者への懲罰を放棄するということは受け入れがたいでしょう。
しかし、平和のためにはどうしても必要なことなのです。


民族和解を進めるため「真実と和解委員会」を設置しアパルトヘイトの時代に起きたさまざまな人権侵害を明らかにし、加害者には刑事訴追を求めましたが、ここでも懲罰や復讐を目的にしないことが明確にされました。
ワン・チーム、ワン・カントリー

成し遂げたことで私を判断するのではなく、失敗して再び立ち上がった回数で判断してほしい


和解の証として黒人たちの反対意見も多い中で白人側と黒人側の2つの歌を統合した新国歌に定め、6つの原色からなる新たな国旗「レインボーフラッグ」が誕生しました。

なんとしても黒人と白人の融和を成し遂げたいと願うマンデラは、白人の不安を緩和させるため、白人中心のスポーツでアパルトヘイトの象徴であると言われ不人気であったラグビーの代表チームを11年ぶりに編成。
異なる人種が協力する必要性を訴え、白人への敵対心がぬぐえない人々に対し、応援してほしいと精力的に説いて回りました。

そしてマンデラが投獄されていた当時の囚人番号「46664」をジャージーに縫い付けたラグビー南ア代表は、1995年自国での南アフリカワールドカップで『ワン・チーム、ワン・カントリー』のスローガンのもと快進撃を続け奇跡的な優勝。

その後、1999年に81歳で大統領の職を退いた後も平等、チャンスのある社会、人間の尊厳のために献身的な行動を続けました。
マンデラの献身的な行動が新しい南アフリカ共和国の礎となり、2013年に95歳でその生涯を閉じたのちもマンデラの存在は今日も人類史の中で不滅の光を放っています。

哲学をポケットに
財布正面の南アフリカ国旗部分に書かれた「THE SUN OF SOUTH AFRICA」と「RAINBOW NATION」の文字。
「南アフリカの偉大な太陽」と称されたマンデラが夢見た「虹の国」。
その想いをメッセージとして刻み込みました。
南アフリカを愛し「20世紀最大の公人」と言われ「全ての人が調和と平等な機会の下に暮らすこと」を目指したネルソン・マンデラ。
ポケットに入る小さいふで、いつでもその哲学や想いに触れることができます。


参考資料

『NHK放送“虹の国”を目指した男〜ネルソン・マンデラ氏のメッセージ〜』

『南アフリカ観光局』

『マンデラの名もなき看守』

DVD発売中 ¥1,143(税抜)
発売・販売元:ギャガ
(C)ARSAM INTERNATIONAL. CHOCHANA BANANA FILMS, X-FILME CREATIVE POOL. FONEMA FUTURE FILM AFRIKA